ニーナ

ニーナ 短編小説

彼女は「二ーナ」という名前だった。

本名ではない。

ただ彼女は「二ーナ」と呼ばれていたし、彼女自身もそう呼ばれることを望んでいた。

彼女の耳には三日月のピアスが美しく輝いている。

今思えば僕と二-ナは奇妙なきっかけで出会った。

季節は秋から冬にかけて変わりつつあった。

人々がどんな服装をするか悩む季節だ。

毎年思うことだけれど、コート姿の横に半袖Tシャツ一枚の並びには

違和感を感じないわけにはいかない。

当時の僕は転職をしたばかりで不慣れな業務内容と人間関係に疲れていた。

僕はプロのカメラマンになりたくてアシスタントを始めたばかり。

アシスタントについたカメラマンは芹沢裕也といって、まだプロになって間もないような男だ。

写真について勉強できるしアシスタントの割には給料も出るからやり始めたものの、

僕は芹沢が大嫌いだった。

一つ年上なだけで人をアゴで使い

大した才能もなく、仕事はと言えばカタログ用写真ばかり。

僕は年齢を気にする方ではないが、芹沢だけはどうにも好きになれない。

実のところ、僕は天体を撮影するカメラマンになりたかった。

「おい、モタモタしてんじゃねぇぞ!」

「はい、すみません。」

「もうすぐモデル来るからしっかりしろ!」

「はい。」

マネージャーと共にスタジオ入りした女性。

確かに美しい女性ではあったがモデルにしては背がそれほど高くないし、

どことなくあどけなさが残る雰囲気だった。

撮影は順調に進み何事もなく終了。

「お疲れ様でした~。」

彼女は撮影が終わると、全く笑顔を見せず去っていく。

慌ててマネージャーが芹沢に頭を下げ彼女を追う。

僕は淡々と撮影の片付けを始めた。

芹沢は舌打ちをしながら帰り仕度をしている。

「全く、大したモデルでもねぇクセに。おい高橋、全部荷物まとめて事務所に置いとけよ。」

吐き捨て、スタジオを出ていった。

後片付けを済ませ、スタジオに鍵をかける。

ふと下を見ると、鍵が落ちていた。

鍵には「Nina」とネームの入ったキーホルダーがついている。

Nina二ーナ?さっきのモデルのかな?

帰りに落としたんだろうか、でもこんな名前だったっけ?

落とし物を見かけると僕はいつも迷ってしまう。

もしかしたら本人が引き返してくるかもしれない。

でもこのままほっとくと誰かに盗まれてしまうかもしれない。

事務所に持ち帰るのがいいんだろうか?

しばらく迷っていたが盗まれたら厄介だし、

とりあえず預かることに決め鍵をポケットに突っ込んだ。

そのまま事務所に戻る。

事務所に入ると小さいながらも受付があり、神経質そうな男が座っている。

事務担当のこの男はいつもパソコンのモニターを見つめていて、

一体何の仕事をしてるのかよく分からない。

この男は相手によって態度を変える。

駆け出しのアシスタントである僕に対しては非常に態度が悪いのだ。

そんなわけで僕はこの男が好きになれなかった。

スタジオの鍵を渡し、撮影が終了したことを伝えると

事務の男は機械的に受け答えしながら流し目で僕を見る。

「お疲れ様でした。」

相変わらずの態度の悪さにムッとしながら、僕は男に尋ねた。

「芹沢さん戻ってないですか?スタジオ先に出ていかれたんですが。」

そんな新人のカメラマンのことなんて知らん。

といった目で僕に言葉を返す。

「じきに戻るでしょうから気にしなくていいです。」

帰ろうかと思った瞬間、落ちていた鍵のことを思い出す。

「あ、そういえば今日スタジオに来たモデルの名前分かりますか?」

事務の男は僕に目を合わさず、パソコンを操作し調べる。

「本日、芹沢カメラマンが撮影したモデルは…大西ユカ、というモデルです。」

「分かりました。ありがとうございます。」

立ち去ろうとした僕に、事務の男は言う。

「高橋さん。」

「はい?」

「何かやましいこと考えてませんよね?」

僕はムッとして言った。

「考えてません。それにアシスタントの人間がモデルと連絡とれるわけないでしょう?

失礼します。」

胸の中に事務の男の印象が残り、嫌な気分のまま僕は事務所を後にした。

あの事務の男に渡す気になれなかったので、落とし物の鍵はとりあえず持ち帰ってきた。

さて…どうしたものか…

結局悩んだあげく何も良い案は浮かばなかった。

翌日、青山の撮影現場に向かう途中。

ふいに昨日のモデルとすれ違う。

一度通り過ぎた後、引き返して後を追った。

彼女はかなり速足で歩いていたので苦労したが、何とか追いつき声をかけてみた。

「あの…すみません」

反応はない…

「あの…大西さんですよね?」

やはり反応はない…

「二ーナさん、鍵落としませんでしたか?」

彼女は立ち止まり、振り返る。

「…あなた、何なの?」

「あ、いや。あの…拾ったんです。スタジオの入口に落ちてたから。」

「返してくれる?」

「もちろんです。」

僕は鞄から鍵を取り出し彼女に渡す。

鍵を受け取ると自分の鍵かどうかをを念入りに確認し、何も言わずすっと歩き始める。

少し歩いた後、立ち止まりもう一度振り返った後で僕の方を見る。

「時間ある?」

あっけにとられた僕は少し戸惑いながら頷いた。

彼女はまた先に歩き始めたのでついていくと表参道沿いにあるカフェに入った。

彼女の行きつけの店らしく、店員は気さくに声をかけてくる。

「お!二ーナ、久しぶり~」

彼女は手を振って、店員に笑顔を見せた。

僕は、店員と彼女を交互に見ながら

”笑顔初めて見たなぁ”

そんなこと考えながら唯一空いていた窓側の席に腰を下ろす。

彼女はエスプレッソを、僕はコーヒーを注文した。

店員がメニューを下げたところで彼女は僕を見て言う。

「ところで、なんでこの鍵が私のだって分かったの?」

何かを不審に思うというより素直に不思議に思っている目だ。

僕は少しホッとしながら言葉を返す。

「ただの勘ですよ。スタジオ出たとこに落ちてたし、

女性の持ち物であるのは間違いないと思ったから。」

彼女は少し上を見て話した。

「ふ~ん。なかなか鋭いわね。」

「今日はこれから撮影ですか?」

尋ねると彼女は目線を僕に戻し答える。

「いや、今日は休み。ぶらぶらしてただけ。あなたは?」

「これからスタジオに向かうところです。あ、申し遅れました、

先日撮影させて頂いた芹沢カメラマンのアシスタントをしてます。高橋といいます。」

話してる途中で名前を名乗っていないことに気がつき慌てて自己紹介をしてみる。

彼女は小さく笑いながら

「高橋君、あなたサラリーマンじゃないんだから。堅すぎよ。

それに敬語はもう使わなくていいよ。」

「そう、ですか?」

「そうよ。私も自己紹介してなかったわね。私のことはニーナって呼んでくれる?

モデル名は事務所がつけた変な名前だし、本名はあまり言いたくないから。」

いまいちピンとこなかったが、あまり聞いて欲しくなさそうだったので僕は黙って頷いた。

そのまま二ーナは話続けた。

「この間、高橋君が現場にいた撮影、あれ酷かったね。

悪いけどあのカメラマン、才能のカケラもないわよ。何であんなののアシスタントやってるの?」

「う~ん。何と言うか。押し付けられた感じかな…。」

「もっとまともなカメラマン、いくらでも紹介するけど。」

「ありがたいんだけど、まだ始めたばかりだしもう少し頑張ってみます。」

「真面目ね。気が向いたら連絡して。これが私の連絡先だから。」

話しながら名刺を僕に差し出した。

裏に手書きで携帯電話の番号が書いてある。

「あ、じゃあこれ。」

僕も慌てて名刺を出す。

以前作った携帯電話の番号とアドレスだけが入ったシンプルな物だ。

この時ほど、

作っておいてよかった と思ったことはなかった。

それから少しして、僕らはカフェを出た。

その後、現場仕事を終えて帰宅をする。

荷物を置き、一息つくと携帯電話が鳴った。

登録されていない番号だ。

一瞬出ようかどうか迷ったが、携帯電話をとる。

「はい。」

「あ、高橋君?」

二ーナからの電話だった。

「あ、ニーナさん?」

「いや、用事はないんだけどね。高橋君の番号で間違いないか確認したかったの。

それだけ、じゃまたね。」

電話が切れる。一体何なんだ?

考えながら二ーナの番号を登録する。

胸に違和感を残しながら、内心喜んでいる自分もいた。

しかし、それ以降は特に連絡もなく数ヶ月が過ぎていく。

相変わらず僕は芹沢のアシスタントを続けていた。

様々なモデルと仕事をしたが二ーナが現場に呼ばれることはなかった。

ある日、事務作業で残業をしていた夜。

久しぶりに二ーナから着信があった。

「もしもし」

「高橋君久しぶり。私のこと覚えてる?」

「もちろん、覚えてるよ。久しぶり。」

「よかった。今何してるの?」

「まだ事務所で作業してるよ。もう少しで終わると思うけど。」

「じゃ終わったら電話して。」

携帯電話が切れる。

仕事を早めに切り上げ二ーナに電話をかける。

「終わったよ。」

「よかったら飲みにいかない?」

「今から?」

「今から。」

「構わないけど。」

「じゃ、23時に新宿南口でいい?」

「いいよ。」

僕はそのまま新宿へ向かった。

新宿駅南口の改札を抜けると、二ーナが手を振っている。

僕らは新宿の静かなバーに入った。

しばらくお互いの近況を話し、気付くと4時間が過ぎていた。

彼女は帰り仕度を始め切り出した。

「そろそろ出ましょうか?」

「あ、そうだね。」

店を出ると、彼女は話しかけてきた

「ちょっと行きたいとこあるんだけど付き合ってくれる?」

「いいけど…どこ?」

「この近くだからついて来て。」

彼女の向かった先は学校だった。

「ここね。私の母校なの。」

「へ~。」

僕の返事をろくに聞かず、

彼女は扉に付いていた南京錠を触り簡単に外してしまった。

僕が唖然としていると、彼女はいたずらな笑顔で言った。

「この鍵壊れてるのよ。中入りましょう。」

「いや、まずいって。」

僕が止めるのを無視して彼女は学校の中を入っていく。

グランドを少し歩くとプールがあった。

そのまま金網を登る。

ニーナはかなり運動神経が良いらしい。

僕も慌てて後を追う。

彼女はプールの淵に座って水を足で弾いた。

空を見上げるとそこには欠けた月が浮かんでいる。

暗闇の中、月明かりに照らされた彼女の姿は何よりも美しかった。

三日月の形をしたピアスが輝いている。

「前に言おうと思ってたんだけど、そのピアスすごく似合うね。」

彼女はピアスを触り

「本当?ありがとう。三日月って何か好きなの。欠けた月って素敵よね。」

「確かに。でも三日月をちゃんと見たことない気がするな。」

「欠けた月は今もこうして、私達を照らしてくれてるのよ。」

「何かあったの?」

「まぁね。そんなところ。よく分かるね。」

「急に飲みに誘われたら、そりゃそう思うよ。」

「一人でいたら、バラバラになりそうで。付き合わせてごめんなさい。」

「謝ることないよ。大丈夫大丈夫。」

雰囲気が明らかにおかしかった。

以前会った時の彼女は強い目で僕を見ていたし、迷いというものが全くなかったからだ。

でも、今の彼女は違っていた。

そんな彼女を見ていると”守りたい”

そう心から思った。

「ここからなら、僕の家までは歩けるし来る?あ、そんなに綺麗じゃないけど。」

「それは悪いよ。大丈夫、何とかするから。」

「変な心配はしなくてもいいよ。一人でいたくないんでしょ?

ちゃんと話聞きたいし。もちろん、無理にとは言わないけど。」

「…ありがとう。」

そのまま、学校をそっと出て南京錠をもとに戻す。

二人で夜空に浮かぶ月を見ながら歩いた。

家に着くと冷蔵庫の缶ビールを渡し、僕らは話し続けた。

彼女には気になる人がいて、半同棲のような暮らしをしていたらしい。

結果的には相手に本命の彼女がいた…と

言ってしまえばよくある話だ。

僕は彼女の話を聞き、なるべく親身になって

彼女や相手の男の気持ちを考えた。

彼女は話しながら、寒そうな仕草をしていたから布団を敷いてやり

「布団に入って話しなよ。あ、僕はこっちに寝るから。」

僕は布団から少し離れたソファーに横になる。

しばらく話続け、僕が言葉を返すと返事が来なくなった。

そっと彼女の顔を覗くと寝息を立てて寝ている。

僕はそっと電気を消し、ソファーに横になった。

彼女にとって、僕はただの良い人なんだろう。

もちろん、それで構わない。

構わないはずなのに、静かに寝息を立てている彼女の横顔を見ていると胸が痛くなった。

胸の痛みはいつまでも消えなかった。

それでも僕は彼女の寝顔をいつまでも見ていたかった。

翌朝、目覚めた彼女に簡単な朝食を作り、お互い昼から仕事があったのでそのまま別れる。

それから何度か電話で話したが、話せば話すほど胸が苦しくなっていった。

彼女からの電話は嬉しかったが、その先には何もない彼女の言葉に僕は傷つくようになり

やがて連絡もとらなくなっていった。

あの日以来、僕らが顔を合わせることはもうなかった。

いつもの夜の交差点。

一人で三日月を見上げてみた。

「二ーナ、君にも見えるかい?この光が」

一人で口に出してみる。

胸の痛みはまだ残ったままだ。

この夜はやがて明け明日がやってくるだろう。

月明かりを浴びながら、僕は一人で孤独を噛み締めた。

欠けた月は、僕のことををいつまでも優しく照らしていた。

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